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庵野が否定した享楽的世界といま

 『新世紀エヴァンゲリオン』を観た。庵野は第7話でJAという遠隔操作型ロボットを登場させ、未知の物体を操ろうとする人間の愚かさとその管理体制の杜撰さを痛烈に批判した。そこに「希望」はなかったのだが、それはあくまでNERV側の考えであり、ミサトは違っていた。一方『シン・ゴジラ』では日本の政治体制をリアリズムで描き出しコミカルに批判したが、政府は物語の過程で外敵に対して内部団結し、この腐った体制もスクラップアンドビルドによって立ち直せるということを前向きに提言した。( 然しこの作品は少々エンタメに寄りすぎているきらいがあり、多少の国家主義とエリート主義が見受けられると捉えられかねない内容も含まれていた )

 愛されなかった子供たちのなかの1人であるシンジは第26話で自己肯定を成し遂げ、現実に生きることを決めた。人類補完計画は、人が一体化・精神化し、争いや恨みや貧困や飢餓という「現実」から解放される一種の「救済」であったが、他方から見ればそれは「現実逃避」でもあった。シンジは第20話でエヴァ(ユイ)のぬくもりの中で裸の女たちに全肯定される。「シンジくん、私とひとつになりたい?心も体もひとつになりたい?それはとてもとても気持ちいいことなのよ」

 これはまさしく人類補完計画であり、現実逃避である。然し享楽的な幻惑に惑わされるシンジを、ミサトが現実へと引き戻す。『新世紀エヴァンゲリオン』ではこのように、シンジが現実から逃避し、また現実に舞い戻るという描写がくどいほどに繰り返される。作品の主題はここにしかないと言っても過言ではないほどに。この根拠から庵野は、第26話で人類補完計画を否定したといえる。シンジは補完の夢の中で他問自答を繰り返し、自己肯定に至った。だがそこにはアニメ26話分を費やさねばならぬほどの苦悩があった。どれだけ他人から認められても、最終的には自分が自分を認めてやらなければ自己肯定には至らないからである。シンジは愛された記憶を持たず、非常に傷つきやすい心を持っていた。だから作中でハリネズミのジレンマが示されるとおり、互いを傷つけないために他人と距離を置いていた。そしてそんな自分に社会的な存在価値を見いだせないでいた。その時間が長かったからこそ、他人から認めてもらいたい気持ちと自分を認めてやれない気持ちが交錯する。ぶつかる。或いは常に受け身で、逃げ腰で、なんでも他人のせいにする。「自分がない」ことを言い訳にして。無理やりエヴァに乗せられて、戦わされて、辛い思いをしたから逃げる。逃げた先でもっと辛いことがあったからまた戻る。シンジは結局、エヴァに乗ることでまた逃げていたのだ。そんなシンジの幼児性は、青年期を経てついに脱却された。それは補完の夢のなかでの彼の知る人々との哲学的対話によって達成された。現実を変えることは、難しい。本当に難しい。ならば自分を変えてしまえばいい。自分の価値観など紛い物に過ぎない。悲観的なアイデンティティへの固執になんの価値がある?もっと他人とぶつかれ。ぶつかることを恐れるな。そうやって世界を知り、現実を知り、ひいては自分を知るのだ。そんな青年期的成長物語が、『新世紀エヴァンゲリオン』であった。

 庵野は「現実逃避」を否定した。では、その立ち向かわなければならない「現実」とは何か。先にあげた無意味な形式主義や政治腐敗は、その一例である。或いはそれは、人間の科学万能主義とその奢りかもしれない。庵野は『新世紀エヴァンゲリオン』でこの変えることの難しい現実に、何とか、前向きに、立ち向かおうとしていたのではないか。それに反して90年代のバブル崩壊後、失われた何十年間を日本は無為にしてしまったのではないか。何も講じずに、うやむやにしてきたのではないか。そんな中でゼロ年代を迎え、京アニ勃興とともに暗い現実に反してアニメ業界は大衆化し、90年代後半のポスト・エヴァンゲリオン的「セカイ」化を経て「日常」化或いは「ファンタジー」化した。「なろう」系や「きらら」系は現実逃避の典型例であり、目を塞ぎたくなるような作品であふれかえる(もちろん昔だってそうだ)。そしてこれからは「バーチャル」化…。また、このデフレ経済の中で日本政府は消費増税を決行し、東京オリンピックを招致したが、どちらも最悪な方向に向かっている。私はどうにも第26話、「ありえた世界線上」のゲンドウパパが新聞を読んでいる姿を想起し、この姿が消えかかっている日本の現状と照らしてしまうのであった。果たして私たちは現実と向き合うシンジなのか、はたまた現実逃避するシンジなのか——少なくとも私は前者でありたいとおもう。