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『神様になった日』を考える

 

はじめに

This is bad. 私は『神様になった日』を二度鑑賞してある種のやるせなさを覚えた。もう、麻枝准は『Kanon』を作れない——そんな実感が胸中に顕れ、何とも言えない喪失感に苛まれて夜も眠れなかった(嘘)。

さて、この作品は各方面に不評で、さらには麻枝がTwitterのアカウントを削除したことから話題を呼び、彼のキャリアに大きな傷跡を残したことは言うまでもない。しかしただこの作品をクソだと一蹴するには、麻枝は大きな代償を払いすぎた。そこで私だけでも麻枝……いやジュンの原点回帰たる『神様になった日』(以下『神様』)を検証し、何が駄目だったのかを真剣に探っていきたい、そう思って始めたのがこの記事であった。

 

麻枝准が回帰した「原点」

私は過去彼が携わった主要な作品(アニメ)を観返して、『神様』を鑑賞するにあたっての解像度を上げることに努めた。そして見えてきたのは、麻枝が回帰した「原点」が『AIR』であったということである。エロゲに手を出すほどの熱意はないです、すみません。

根拠となるのは『AIR』第十一話・十二話と『神様』第十話後半~第十二話の類似性だ。なんと両者は、《(髪が切られ、)関係性がリセットされ、記憶が無くなり、心を閉ざし、ある他者が現れて少女を引き取ろうとし、時間制限を設けられ、それまでに再び少女に認められなければならず、はじめは病人に対して非人道的な行いをし嫌われるも、遊びを通じて関係性を再構築し、最終日に対立者に引き取られそうになるが、抱っこされた少女が暴れだし、歩いてこちらにゴールする(これは若干前後する)》まで同じなのである。これにはさすがに笑ってしまった。しかしこれが逆に『AIR』の完成度の高さを際立たせ、『神様』の自己批判に繋がるという皮肉を、恐らくジュンは予期していなかった。

 

「家族」、そして「思い出」

AIR』との類似性が確認されたところで先ず、ジュンは『神様』で何がしたかったのか考えてみたい。

前提として、それは彼自身の入院生活において感じた闘病の苦悩に関係している。『Kanon』の美坂栞、『AIR』の神尾観鈴、『CLANNAD』の古河渚、『Angel Beats!』のユイ等、ジュンは携わったほぼ全ての作品でキャラクターに病気を付与し、入院させている。なぜならジュンは幼少期に長期入院をし、その間にゲームブックに親しんだ経験からシナリオライターになったという経緯があるからだ。なおこれは麻枝准の回帰した原点の一つでもあり、『神様』でも入院した佐藤ひな(以下「佐藤」)が成神陽太(以下「陽太」)とゲームをすることにより失った記憶を取り戻すという展開がある。さらに2016年には難病と身体障碍、うつ病を患っていることを公表、彼の人生において病気や死がいかに身近であるかはお分かりいただけると思う。(若干作家論っぽいが彼はその程度の人間だ)

では本編からジュンのメッセージを紐解いていこう。『神様』第二話「いい思い出があれば人は幸せでいられる」、「このひと夏に起こる、笑ったり怒ったり恋したり、でもちょっぴり切なくて、そんな想いを詰め込んだような一曲」、九話「貴様と過ごしたこの夏は消えて無くなるが、今感じているこの気持ち——せめてそれだけは残っていて欲しい、そう願う儂がおる」、十一話「ひなは、僕たちの家族だよね」「現実はただ1つ。あの夏一緒に過ごしたひなが、今ここにいるということ。それだけは失わないようにしなくちゃ」、十二話「世界が終わり、滅びようとも、この思い出だけは消えたりはせん。儂の永遠の宝物じゃ!」、これらの台詞からわかることは、この作品は「家族」と「思い出」をテーマに設定しているということだ(『神様』は「テーマ」を「設定」するという想定を成り立たせる程度の作品だ)。佐藤は「常温動作可能なチップ型量子コンピュータ」を脳に埋め込まれるまで、脳萎縮と神経原性筋萎縮が同時に起こるロゴス症候群により思い出を持たざる少女であり、かつ両親には捨てられ育ての祖父は亡くなるという壮絶な過去があった。だからジュンは『神様』の前半で佐藤に「家族」と「思い出」を作り、後半で佐藤の記憶を消し、彼女が真の姿になったところを陽太に救わせることで、その「家族」関係が真の家族であることを証明し、佐藤を本当の意味で救うという奇跡を描こうとしたのである。しかし、これはジュンが数々の作品で描いてきたテーマであり、『AIR』第六話「人間は思い出がないと生きていけないけど、思い出だけでも生きていけない。覚めない夢はいつか悲しみに変わっちゃう」、『CLANNAD』(原作)「家族のような存在があれば道を大きく踏み外さない」等まつわる名言(?)も多い。

それだけではない。ほぼすべての作品設定において、ジュンは先ず登場人物に辛い経験や闇を負わせ、人生の悲惨さを強調する。また彼らの記憶をなくすことで、人生の儚さを強調する。最後にそれらを克服させることで人生の素晴らしさを示し、鑑賞者に人生の再起を促す。こうして見ると『神様』の構造も全く同じであることに気づくだろう。つまりジュンはどれだけ作品を作っても、結局やっていることも伝えたいメッセージもまるで変っていないのである。ここで話は『AIR』に戻ってくる。

 

スピった『AIR』、狂った『神様』、「変わら」ぬジュンの大誤算

 「もう、ゴールしていいよね」をジュンが忘れているわけがない。だから前述の『AIR』と『神様』の類似性はほとんど意図的であると言っていい。ジュンは『AIR』の現代版、正確にはスピリチュアルな要素を排除したSFチックなアレンジに挑戦したのではないだろうか。『AIR』は実際めちゃくちゃスピっていて、伝説とか奇跡とか幻想とか大自然がごちゃ混ぜの作品だ。然し、だからこそ「神」尾観鈴の神性が際立つのである。それに比べて『神様』はどうか。『AIR』と終盤の構造がこれだけ一致していて、かつ既述の通りジュンは伝えたいことがまるで変らない=『AIR』とテーマは部分的に共通しているにもかかわらず、これだけの批判を食らっているわけだ。これが、「逆に『AIR』の完成度の高さを際立たせ、『神様』の自己批判に繋がるという皮肉」なのだが、では『神様』のいったい何が駄目だったのか、これを探っていきたい。

 

(ⅰ)第五話から見える、第一話~四話の無駄さ

 私は『神様』第五話「大魔法の日」を、「良いジュン」として評価している。少女の抱えた問題と過去に迫り、主人公がそれを救い出し、視聴者はそれに感動し涙を浮かべるといういつものジュンがこの第五話には微かに存在した。然し、私たちはこの第五話で、泣けなかった。なぜだろうか。

その理由は第五話の唐突感と作品の方向性のブレにある。これは第四話「闘牌の日」に対しての唐突感というわけではなくて、実際ギャグの後のシリアスは成功することも多いのだが、問題なのは第一話~四話に対する五話のあまりの唐突さなのだ。自分のことを自分から語らない伊座並の態度として辻褄は合うが、作風として唐突すぎて視聴者が着いてこられない。

第一話、「神様」になった佐藤はそれでもコミュ障の餓鬼であり、幼児期特有の自己拡大も相まってネットワークに接続した状態を神と認識し自らをオーディン様と呼称する。この佐藤の寒すぎるノリと陽太のツッコミが視聴者に共感性羞恥を与え、この作品は一体何なの?ギャグなの?でも「世界の終わり」とか「全知の神」とか言ってるし壮大な話なの?という方向性のブレを感じさせてしまう。さらには伊座並に告白するしょうもないくだりをぶっこんでギャグ路線を決定づける。

第二話、かと思いきや伊座並との昔話で真剣な感じを出してくる。ならこの作品は伊座並と陽太の関係性を描き切るのが一つのフラッグになるわけで、それを告白芸で逃げる第一話と矛盾する。

第三話、新キャラが登場し、ラーメンブームとギャグに寄っただけの虚無を繰り広げる。確かに毎話仲間は増えているのだが、私が求めていた「救済」、そういうことではない。延々と寒いノリを見させられて感情が冷え切っているところに、新キャラのしょうもなエピソードを追加するジュン。

第四話、ギャグとしてのクオリティが高い回ではある。つまり佐藤のはじめての笑顔溢れる日常を描く姿勢を決定づける一話だ。なるほど、この作品はギャグ路線でいくのか、よしわかったよジュン。だが、だとしたらこの話に対して他の回のギャグが寒すぎてつまらなすぎることが明確な敗因であることもまた事実だ。

ここで話が第五話の唐突感に戻る。あれ?この作品ギャグ路線でいくんじゃなかったの?となるわけだ。ブレである。しかも第五話の内部にもブレがある。アバンでこの第五話は真剣なんですよと提示しているにもかかわらず、父親を外に出すくだりでキャバクラ等のしょうもない天丼ギャグ(誰も笑えない)を繰り広げるのだ。ビョーキか?

このように、第五話の唐突感と作品全体のブレにより、私たちは泣くことができなかった。ではどうすればよかったか?私は、第一話~四話で伊座並の無口な部分、消極的な部分にもっとフォーカスして、象徴的なカットを差し込めば全く違うものになったと考えている。しかし実際はむしろ伊座並の積極的な部分が浮き彫りになってしまっていて(甲子園に通う、リベルタス杯を観戦)、第五話に説得力がまるで無い。まあ、そもそもつまらないギャグ路線をやめろという話なのだが。また、過大な謎の提示に対する日常パートのしょぼさで、いつ世界の終わりに関する情報出てくるんだというイライラ感が募る仕組みになっている。

ここであるジュンの発言を引用したいと思う。

 

〝麻枝:まあ、ね。別に、ギャグに自信があってギャグ回を書いてるとは思ってほしくないんですよ。お祭りのようなにぎやかな日常を描くことによって、落差で最後のシリアスがさらに切ないものになる、という逆算で作ってるものなので。「ギャグが得意でギャグ回作りましたよ」ではないことを強調したいです。

 

──(笑)ギャグが得意ではない、という自覚なんですか?

 

麻枝:アニメでは。アニメでギャグをやるのは、すごく不得意です。だから、「笑ってほしい」なんておこがましいことは言えないです。〟

https://ddnavi.com/interview/692122/a/ ,全鍵っ子必見! クリエイター・麻枝 准の完全復活を告げる、新たな決意――『神様になった日』麻枝 准2万字インタビュー③)

 

 確かにエロゲの脚本とアニメの脚本は違う。だから麻枝准はアニメ脚本をやるべきではないという批判も、彼はもっともだと感じているらしい。だが少なくとも私は、『Angel Beats!』も『Charlotte』もまだ、それなりに、いや多少良かったと考えている。今回ほど寒いのは初と言っていい。ジュン、少しのどかで自然豊かな処で休んでみたらどうだろう。

 

(ⅱ)第六話・七話の自己批判精神

 第六話、ジュンは陽太と国宝の友情と佐藤に芽生えた恋心を描きたかったようだが、佐藤が冷凍車に閉じ込められてそれを追いかけて飛ぶというシリアス展開のしょうもなさ、ベタな突飛さが真面目なテーマを冒している。例えば佐藤が迷子になる、社に入り込んでしまう等、子供の日常に潜む危険の中でも、恋心やそれを助ける陽太と国宝との友情を描くことができたのではないだろうか。また、やはりサブヒロインたちの魅力のなさとなんで来たの感が拭えなくて、花火の象徴するところである円、仲間感が逆に痛烈な皮肉になってしまっている。同クール、『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』第十話の花火との大きな違いがここにある。

 第七話、全員が集合してもなんの熱さもこみ上げてこず、紙はいくら積み重なっても紙に過ぎないというアイロニーが伺える。激しい自己批判精神だ。しかし佐藤と陽太が惹かれていく描写には「良いジュン」を感じた。

 なお、第八話は佐藤が病気に逆戻りするも奇跡で復活を遂げることが示される上、陽太と二人きりの旅行も良かったし、第九話も良い設定であのジュンが帰ってきたような気がした。……気がしただけだった。

 

 (ⅲ)第十話~第十二話の狂気と『AIR

 怖い。ひたすらに怖い。何があったらこんな脚本が書けるのか。陽太は伊座並との恋ではなく佐藤への愛を選んだ、これはすごい選択だ。あれだけ結ばれたかった女の子との両想いを諦めてまで、佐藤ひなという少女を好きになったのだ。それがどうしてああいうことになるのか、全くわからない。罠で、実はわかる。再三申し上げた『AIR』回帰説である——《(髪が切られ、)関係性がリセットされ、記憶が無くなり、心を閉ざし、ある他者が現れて少女を引き取ろうとし、時間制限を設けられ、それまでに再び少女に認められなければならず、はじめは病人に対して非人道的な行いをし嫌われるも、遊びを通じて関係性を再構築し、最終日に対立者に引き取られそうになるが、抱っこされた少女が暴れだし、歩いてこちらにゴールする(これは若干前後する)》——もう一度このフレーズを思い出して笑顔になろう。

 それにしてもいくら構造が同じとはいえ、『AIR』における「非人道的な行い」が車椅子に乗った観鈴を炎天下に置き去りにする(すぐ引き返す)一回のみであるのに対し、『神様』では何度も何度も陽太が佐藤に大声をあげて佐藤の行動をある方向に矯正しようとする。この展開にはそれでも本当に佐藤を愛した男なのか?という疑問が浮かばざるを得なく、ただでさえカスであった物語、それでもちょっと巻き返してきたか!?となっていた物語が完全に崩壊した。乙坂歩未でござるか??

 

 

まとめ/さいごに

このように『神様』の駄目な部分を列挙していくと、きりがない。つまり、根本的な部分でジュンが作劇に失敗していることがわかる。先刻の引用記事にも見て取れるが、ジュンは「シリアスを描くためのギャグ」を勘違いしている。ギャグさえ描けば、視聴者は唐突なシリアス展開にギャップ泣きするという大いなる勘違いだ。本当は逆で、常に真面目に、真剣にストーリーを構築し、合間に軽いギャグを挟む程度が脚本における正解なのだ。多少それに成功しているのがまさに『AIR』(アニメ)で、キャラクターの掘り下げ、神話の説得力、街の空気感、掛け合いの微笑ましさ、感動(要議論)のストーリーと全てが上手く作用している(もう一度言うがエロゲをやるほどの熱意はない)。『神様』は『AIR』と同じ幕引きを図ったにもかかわらず、その全要素において『AIR』に完敗しているのである。このブレさえ無くなれば、麻枝准は真に原点回帰を遂げ、私たちの前に再び翼を広げて大空を羽ばたいてくれるだろう。私はジュンに、あの頃のスピった脚本を求める。あれで良かったんだ、ジュンは。あれで…………

さいごに、『リトルバスターズ!』のこの名言をjun_not_owakonにささげたいと思う。

 

 

 

もし世界が知りたくもないことに溢れているとしたら、できることは目をそらすこと、逃げることだけなのか?そうじゃないはずだ。逃げだしたら何も解決しない。逃げ続けたら、同じことを繰り返すだけだ。だから、本当のことと、真正面から向き合わなくちゃいけないんだ。